マルクス主義的立場からの階級意識
クリス・クトローネ
マルクス主義者にとって、近代的な社会経済階級への分裂は資本主義という問題の原因ではなく、むしろ資本主義の結果なのである。
近代的階級制度は、聖職者、 貴族と武士、「庶民」と呼ばれる大勢の人々に分ける古代のカースト制度と異なる。この「庶民」は、神性について知らなく、敬意を欠き、歴史の大半を自給自足農業の百姓として生きており、古代世界の文化の華やかさの背景を無言で漂っていたものであった。
近代的「ブルジョア的」社会、近代都市の社会は、自分で労働する以外に何の財産も持たない「自分で自分自身を作り上げる」人々である庶民、第三身分による反乱の結果である。フランス革命の時、第三身分の人々は聖職者という第一身分と、貴族という第二身分から離れ、球戯場の誓いによって自分達こそが国民議会であると宣言し、アベ・シエイエスの呼びかけに応じた。アベ・シエイエスの革命的パンフレットである「第三身分とは何か」では、旧体制の下では第三身分は「無の存在」であったのに対して、今となっては「全て」であると説いた。
20世紀のマルクス主義の批判理論家であるテオドール・アドルノは「社会とは第三身分によって作られた概念である」と言い表した。これは、どういう意味かというと、人類が神によって存在の大いなる連鎖に順序付けられていた古代の文明と違い、第三身分は人々が他の誰かと関わり合うという発想を主張したということである。皆、それぞれの「労働」を通して関わり合い、この社会における活動は伝統的価値観による厳しい序列ではなく、商品の「自由市場」を通して評価される。人々は社会において自分の価値を見つける自由を持っている。
従って、近代社会とは教会と封建的貴族が持つ伝統的権力を打倒した後の第三身分の社会である。近代的ブルジョア的社会は、第三身分の価値に基づいており、その価値は労働の価値を中心とする。近代社会における最も価値のあるものは、宗教や武士の行動規範ではなく、むしろ物質的生産性や能率性、「社会において有意義な一員である」ことにある。この観点、つまり近代的ブルジョア的社会の観点から見ると、歴史の全ては、だんだん発展している異なった「生産様式」の歴史であり、資本主義はその過程の最も新しくて高い段階である。過去は、無知と迷信の中で必死で働いている人々が、保守的習慣と傲慢なエリート達によって、それぞれの潜在的な生産性と創造力を実現することを妨げられた時代とみなされるようになった。この状況の典型的イメージは、ガリレオが教会の脅迫から自分の科学的明察を撤回せざるを得なかったということである。
第三身分による反乱が成功したことによって、人類は自然世界に対して、また人間関係の面において、啓蒙という「自然状態」を得たと見える。無限大のように見える可能性が開かれ、遂に暗黒時代は終わりを迎えることとなった。
しかし、18世紀末期と19世紀初期の間で起こった産業革命とともに、資本の価値と労働の賃金の価値の間の新しい「矛盾」が、ブルジョア社会に現れてきた。この矛盾とともに、新たな社会的政治的対立も現れ、それは、資本の価値を保ちながら増やし続けざるを得ない資本家に反対して賃金の価値の充実を目指す労働者の「階級闘争」であった。この矛盾は、当時「空腹の四〇年代」と呼ばれた一八四〇年代においてある頂点を迎え、それは産業革命後に起きた世界における最初の経済危機であり、その危機はただの市場調整にとどまらず、より新しくて深刻な問題を指し示した。
一九世紀半ばに起こった労働者と資本家の間の新しい闘争は、「社会主義」への希望、すなわち社会が社会そのものに忠実になること、社会の全ての人々の貢献に価値が認められ、人類の発展と政治的方向を決定することに参加できることへの望みによって表現された。これは、一八四八年の革命、一八四〇年代の危機にもたらされたヨーロッパにおける「諸国民の春」を通して現れた。この革命は「社会共和制」や「社会民主主義」、つまり社会全体の要望にふさわしい民主主義を要求したのだ。
当時の社会主義者にとって、一八四〇年代に生まれた危機と一八四八年に起こった革命は資本主義を超える可能性と必要性を指し示したのだ。
一八四七年後半に、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルス、二人の若きボヘミア的な知識人は、地平線の向こうから現れた潜在的な革命の兆しを前にして共産主義者同盟よりマニフェストを執筆する依頼を受けた。一八四八年の革命のわずか数日前出版された「共産党宣言」は、近代社会の矛盾的かつ逆説的な状況、つまり資本主義下の近代社会において急進的な可能性と自滅的な傾向が同時に起こり得ることを説いた。
ヘーゲルによる歴史に対する弁証法の良き支持者としてのマルクスとエンゲルスにとっては、矛盾という現象は変化の可能性と必要性の表れであった。
マルクスとエンゲルスは、その当時に生じている近代社会における危機の明白さと急進的な変化の必要性に確信を持ちうる立場に立っていた。彼らは、社会主義や共産主義の創造者ではなく、むしろ彼らの時代に起こる社会主義のための闘争の歴史的経験をまとめようとしていたのだ。彼らは労働者達に資本主義を克服することに利益があると伝えようとするのではなく、むしろ資本におけるブルジョア社会の危機という歴史的状況に対する労働者達自身の意識を明確にしようとしていた。
しかし、マルクスとエンゲルスが他の社会主義者と異なる点は、産業革命後の近代的労働者階級は非常にユニークな特徴があると理解したという点である。近代的労働者階級、あるいは「産業的プロレタリアート」をユニークにしたのは、大量失業の対象であることであった。マルクスとエンゲルスは、この失業を、市場変動や技術の進化によって人々が職を失う一時的で偶発的な現象ではなく、むしろ資本の価値を保つことが労働者の賃金の価値と対立する産業革命後に現れた近代社会の永久的な性格であるものとして理解した。より高い賃金とより低い利潤は社会全体の生産性を高めると認識した産業革命以前のアダム・スミスと異なり、マルクスとエンゲルスは、産業革命後に生産性の増加が労働者による効率の改善からではなく、機械による効率の改善からくると認識していた。これは、マルクス主義的フランクフルト社会研究所の所長であるマックス・ホルクハイマーが言ったように、「機械は労働ではなく、労働者を不要にする」という意味である。
より高い生産性は、世界規模で雇用と富を増すのではなく、むしろ失業と窮乏を増加させた。資本主義は、(例えば小作人の)昔ならがらの生活を破壊したにもかかわらず、もともと第三身分の反乱によって想像され、旧体制の階層制に反対するブルジョア革命によって約束されたように、社会の全ての一員のために意味のある生産的な雇用ひいては社会への参加を提供することに失敗した。近代的都市が生み出した約束は、世界中へのスラム街の広まりによって嘲られている。旧世界は破壊されたが、新しい世界は優れているわけではない。自由への約束は残酷にも悪用され、その望みは絶たれる。
マルクス主義者は、近代社会における矛盾の性格と特徴を一番最初に理解し、引き続き一貫して同じ立場を保ちながら、理解を推し進めた。
マルクスの時代とわれわれの時代の違いは、賃金と資本の対立を生み出す価値の矛盾的形態という社会の根本的な問題ではなく、むしろ、社会的対立と政治的対立の形にある。現在の対立は、マルクスの時代のように、労働者と資本家の間の「階級闘争」という形をもはやとらない。「階級」は、マルクスと歴史上におけるマルクス主義の時代のように、積極的かつ主観的なカテゴリーではなく、むしろ消極的かつ客観的なカテゴリーとなってきた。マルクス主義者がかつて示した「階級意識」は存在しない。
これは、今日における「階級」の経験にある種の憂鬱さを与える。特権も特権のないことも、恣意的かつ偶然であるように見える。人の社会における役割の価値の表れではなく、幸運であれ不運であれ、単なる運の表れのように見えるのだ。階級という立場から政治を成立させることは不可能となってきたので、その他の政治がそれに取って代わる。文化、民族性、宗教の間における対立に、資本主義に対する闘争は置き換わる。困窮した労働者は、疑わしい権威を持つ体制を攻撃するのではなく、むしろ自分の共同体を保ちたいという気持ちからくる憎悪を抱いて、他の労働者に矛先を向ける。共通の階級立場に対する意識は、完全に曖昧にされ、解消されてしまったかのように見える。
マルクスが予測したと異なり、労働者は、自己が繋がれた鎖の他に失うもの何もなくて闘争するのではなくて、失業している大衆は、この鎖を武器として手に取り、互いを傷つけあう。そうしている内に、資本主義は、背景において全てを基礎づけ、包括しながら、続いているが、これはもう既に認知されていない。しかし、これは別に驚くことではない。なぜなら、資本主義を資本主義として実践的に扱うことのみによって資本主義という問題を適切に理解できるからだ。大事な問題は、今日においてそうすることはなぜあまりに好ましくないように見えるのかである。人々はなぜ、社会主義に向けて闘争することをやめてしまったのだろうか?
二〇世紀初頭に起きた世界大恐慌以来、最も大変な経済的及び社会的危機の中にわれわれはいると耳にしている。しかしながら、その危機と同じ規模の政治的な危機が見えていない。一九三〇年代に共産主義とファシズムが左右の両側から資本主義に挑戦して大規模な社会的改革や政治的変革をもたらしたのとは異なっている。
なぜなら、社会主義という発想ーー社会は社会そのものに忠実であるという発想ーーから人々は幻滅してきた。これと共に去って行ったのは、近代社会が秘めている自由という約束を果たそうとして資本家に反対した労働者による闘争である。それは古代的価値観から持ち出してきた「社会的公正」に争う概念に置き換えられた。しかし、古代的価値観の根源、例えば宗教はお互いに対立しているので、公正のための闘争は社会全体の変革ではなくて、むしろ異なる「文化」が争い合う状態への退化に繋がっている。今日におけるアメリカでは、労働者か資本家かのどちらであるかよりもーーこれが何を意味しているのかは曖昧であるがーー「青い州か赤い州か」そのどちらに暮らしているのか、「人種、性別、性的指向」は何なのかという問いの方が重要に見える。つまり文化的共通性の方が社会経済的利益より重要視されているようなのだーー後者は台無しになりかけているが。人々は、そうする他ないかのように、自己の鎖にしがみついている。