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「叛乱を革命から解放する」: 長崎浩氏とのインタビュー 前半

February 8, 2021
by Houston Small

202011月に安藤歴とヒューストン・スモールは日本の新左翼の歴史について、長崎浩にインタビューした。新左翼の起源や高揚、そして衰退の過程を辿りながら、マルクス主義とマルクス=レーニン主義の違い、左翼にとっての党の役割、叛乱及び革命と歴史の関係などを考察した。そもそも新左翼の目標は何であったのか?それをどこまで達成したのか?

 インタビューは二つに分かれており、後半は来月に掲載される予定である。

 

 前半

 

1)長崎さんは、ブント、東大助手共闘等の活動において60年安保闘争、70年安保闘争に関わり、その後は地方党の結成などの活動をしており、成田闘争のような住民闘争にも関わっていたが、そもそもマルクス主義または「左翼」との出会いや運動に関わることになったきっかけは何だったのか?

1956年という年

長崎:もう昔の話になりますけれども、まずは1956年が日本ではどういう年だったかを思い出すことから始めます。以降の理解の助けになると思います。1956年は私が大学に入学した年です。その2月にフルシチョフによるスターリン批判がありました。それと直接に関係して、ハンガリーで反ソ暴動が起こる。ハンナ・アーレントが「政治的な活力がまだ衰えていない」証拠だと書いたのがこれです。日本の場合には、「もはや戦後ではない」という有名なスローガンが政府の経済白書の題名になりました。つまり、この年を境にして戦後復興にようやく目処がついて、それ以降の経済高度成長社会に邁進していくという宣言が政府から発せられた年です。ですから、敗戦直後の一種の革命的な混乱時代を抜け出していく、そういうメルクマールになるのが1956年のわけですよ。それと対応するかたちで、前年の55年には保守党と社会党がそれぞれ合同して、自由民主党と社会党の二大政党がここで初めて成立します。日本の政治学者が言うところのいわゆる「55年体制」です。そして、そこから非常に特異的な戦後政治過程が始まり、60年の安保闘争につながっていく。

特異な戦後政治過程

この戦後政治過程は端的に言って、革新の側が平和と民主あるいは戦後憲法を「守れ」というスローガンを出す。それに対して、この政治過程では岸信介に代表されるような戦前からの保守政治家がまだ存在している時代です。戦後憲法の理念から言えば「逆コース」と批判されたように、彼らは戦後政治過程の巻き返しをやろうとしている。中心は進駐軍に押し付けられた戦後憲法の改憲、そして再軍備です。その前提に日米安保条約の改定が追及されます。すると「逆コース」の策動があるたびに社会党・総評を中心として「憲法を守れ」の反対運動が起こる。保守が戦後体制の革新を、革新側がこれを守れと言う。こうしたねじれた対立を特徴とする戦後政治過程が55年からスタートして、それの延長上で安保闘争が闘われる。この特異な戦後政治過程の特徴をまずはおさえておきたい。

そして結論だけ先に言えば、安保闘争に日本の国民と知識人が勝利します。安保闘争後に至ってようやく、特に保守党、自由民主党で、戦前の政治家から戦後の政治家への交代が起こるのだと思います。岸信介の内閣が倒されたのが、それを典型的に表している。その意味で、55年から60年までの政治過程が重要だと私は思います。55年体制とは55年から保守と革新の政治体制が崩れる90年代までのことだと、政治学者は言ってるけれども、私の意見は違います。60年で一区切りつけないと、それ以降の万年保守と万年野党の体制の成立ということがおさえられないと思っています。これが政治過程のことです。

全学連学生運動の再建

次に学生運動です。戦後政治過程の後半から全学連の政治運動が再興されます。その最初のメルクマークになったのが、1956年の砂川の米軍基地闘争。基地返還闘争ですね。これに全学連が参加し、私もこれで学生運動を初体験します。

私のことを言えば、 私はもともと物理学者になろうと大学に入ったものですから、入学してすぐに「自然弁証法研究会」略して「自弁研」という物理学者たちの研究会に参加しました。そこに所属して主として科学史および科学哲学からマルクス主義にも接近するというふうにまずはいくのですね。これは多少特殊なコースかもしれません。それに関連して、マルクス主義にも技術論から入っていくわけですね。武谷三男という素粒子論物理学者がいまして、この人が戦後に有名な技術論を提起します。この技術論は「もはや戦後ではない」という戦後社会における科学技術の振興につながっていく性格のものですが、しかしマルクス主義の装いで技術論を展開した。同時にこの技術論に大きな影響を受けて、いわゆる戦後の「主体性派唯物論」の一派が形成されます。ソ連と日本の共産党による公式の唯物論に対する批判勢力ですよ。その代表格が梅本克己さんとか黒田寛一さんということになります 。自弁研というのは、そもそもが必ずしも日本共産党に同調しない雰囲気を持った研究会だったんです。実際、黒田寛一とか、その他の戦後主体性派唯物論者を招いては話を聞くというようなことをやっていた。ですから、日本共産党というよりも、反スターリン主義、トロツキズムの系譜からブントへと、私はそういう経緯です。

地主の末裔たち

それからこれはエピソード的になるんですけれども、日本の場合には、特に戦前は地方地主の家系の息子がアカになるという典型がありましたでしょう。その戦後の最後の例が、私なんかも含めて、この時代の全学連の指導的メンバーだったということです。田舎から子弟を大学に送り出すことが珍しい。だから学生がまだそういう意味でエリートだった時代の最後ということでしょうか。例えば全学連幹部の一人の話では、東大入学のために四国の村を出る時、村人が旗行列で峠まで送り出したそうですよ。まるで出征兵士の見送りです。これは地主の息子だったかどうか知りませんが、大江健三郎なんかも四国の山の中の出ですよね。あの人の初期の小説を読むときはそういうバックも読まないといけない。

全学連と日本共産党

安藤: 60年当時は保革という対立で、社会党共産党系の人と自民党の人達で社会党系の人たちが「左翼」って言われたというお話ですけれども、全学連だとまだ共産党支持なんですかね。どういう感じで自分達を規定してたんですか?

長崎: 全学連の幹部たちは日本共産党の学生党員です。そしてこの人たちが、例えば東大で言うと東大の共産党学生細胞というかなり大きな組織の一員だった。したがって当初は全学連再建も共産党の方針の一翼としてあって、そこから学生党員たちがはみ出て行くという経緯ですね。

聞いたことがあると思いますけれども、56年以前は日本共産党の青年運動自体が非政治化していたわけですね。よく「歌と踊り」の路線と揶揄されます。大学の片隅で人を集めてコーラスやるとか。このように、日本共産党はおよそ政治的な指導を学生運動に対して放棄するようになっていた。共産党は55年までのいわゆる戦後の混乱期に、武装闘争でこっぴどく失敗するわけです。これに対して自己批判したのが、いわゆる「六全協」というやつです。間違ってましたと坊主懺悔をする。この流れに全学連の幹部達も巻き込まれて、そこから反省して立ち上がってきて、全学連で政治運動に取り組む。こういう経緯です。

 

2)日本のいわゆる新左翼とはどんな運動であったのか。旧左翼からどんな問題を受け継ぎ、その問題をどのように克服できると当時考えられたのか。新左翼にはどのような可能性があったと考えるのか。自身の思想を新左翼の関係でどのように位置づけるのか。

ブント(共産主義者同盟)

長崎: 1960年の安保闘争のほぼ1年前、58年の暮れに共産主義者同盟が結成されます。そして、全学連の主要なメンバーがその中心になる。その後の全共闘時代の新左翼のイメージとはずいぶん違うんですけど、当時は前衛党は各国に一個だけ存在すべきだという教義が暗黙に信じられていたわけです。 唯一の前衛党です。日本共産党はその後もこの教義に固執していきます。宮本路線です。そうしますと唯一の前衛党の内部で何か路線なり方針なりに反対する時って、いわゆる党内闘争と言いまして、党内民主主義を要求して前衛党をその内部で変えていくということが、せいぜい許される批判的な動きだった 。ところが、ブントは「別党コース」といいまして、組織を割って出ちゃったわけですね。これは初めてのことで、今では想像ができないでしょうが当人たちにとっては大変なことだったのです。そして新しい前衛を作るんだと標榜して小さな組織をスタートさせた。したがって、60年安保闘争の直後までそうですけれども、当時は「新左翼」という名称は自他ともにありませんでした。もっぱら「新しい前衛」とか「新しい前衛を目指す」という風に言われていた。このことが今言ったことに関係するわけです。つまりは幻想的な話ですけれども、共産党にとって代わって唯一の前衛政党にわれわれがなるんだということです。これが組織的目的であり、私などブントの学生同盟員の盟約もこの点にあったのです。その後の60年代になると、新左翼諸セクトが乱立し、もう「唯一の前衛党」にとって代わることなど事実上関係がなくなる。日本の新左翼運動を見る時、この違いは大切なポイントだと私は思っていますので、あらかじめコメントしておきます。

左翼反対派としてのブント

では「新しい前衛」は、日本共産党のどこを批判してスタートしたのか。ブントの綱領に縷々書いてありますが、今となればこの点はたいして重要な論点ではありません。一口で言うとすれば、失われていた古典的なマルクス=レーニン主義を復興しようということ。ただ、結成したばかりのブントはすぐに戦後政治過程の頂点、60年安保闘争の渦中に身を投じることになります。このためにブントを結成したのではないのに、安保が革命につながるなどと夢思っていないくせに、また当時のトロツキスト革共同のように「喫茶店オルグ」だけしていればいいのに、「アンポがつぶれるかブントがつぶれるか」と唱えて安保闘争に没入していきます。そこにどんな衝動が働いていたのでしょうかね。これもその後の私のテーマになります。

ともかくも、安保闘争の先端を走ろうとして、「新しい前衛」と現実の大衆運動との折り合いを付けないといけない。そこで掲げられたのが「労働運動の左翼的再編」というスローガンです。そのために全学連の学生運動をも過激な手段として位置付けるということです。これは特徴的な言葉として記憶すべきだと思います。つまりこういうことです。労働運動は当時の社会党と総評それから共産党の指導下にありましたから、このままでは労働者階級がブントが考えるような革命に進む目処はない、進む可能性はない。しかし他方で、あくまでも労働者階級が革命の主体だという古典マルクス=レーニン主義に従うのであれば、どうしてもこの体制内化した労働者階級とその指導部との関係に「左翼的な再編」を創り出していって、労働運動をブントの側に獲得しないといけない。ロシア革命でメンシェビキに支配されていたロシアの労働運動をボリシェビキがひっくり返して革命に近づいていくというイメージ。これを「左翼的再編」と言ったわけです。

歴史的カテゴリーとしての左翼反対派

実はこれは歴史上珍しいことでもなんでもないんです。言い換えれば、共産党(あるいはスターリニスト)と社会民主主義者社会党に対して、あくまでその革命運動内部の「左翼反対派」として自らを位置付けるのです。左翼反対派として活動しながらいつか自らが「唯一の前衛党」へ成長することを目指すのです。私は マルクス主義における「左翼反対派」というコンセプトを、その後の新左翼運動を理解するためのキーコンセプトとしてずっと使っていくことになります。

歴史的に言いますと、20世紀の初めにかけてドイツを中心としたマルクス主義の労働者運動が、いわゆる社会民主党化して体制内化していきます。これに対して、ローザ・ルクセンブルクとかルカーチとかレーニンなどが反対派を形成して、結果的にいわゆる「革命か改良か」という第二インターの分裂をもたらした。これがマルクス主義の革命運動の20世紀的なスタートになるわけです。これ以降、第二インターの修正主義がヨーロッパ社会民主主義として定着していきます。スウェーデンを始めとして、社会民主党が政権を担うことが普通の時代に入っていき、福祉国家を形成するということです。第二インター以降、マルクス主義の革命論ではこのヨーロッパ社会民主主義が何といっても主流であって、マルクスはヨーロッパで「勝利した」のです。これが私の見方です。ロシアではスターリニストが革命を簒奪している。それに対して、プロレタリア独裁にまで革命を推進すべきとするもう一方のマルクス主義者はどうなるのか。労働者階級革命論に則っている以上は、そして労働者が当面は社民ないしスターリニストの指導下にある以上、どうしても「左翼反対派」の位置に立たざるをえない。そういう一種の歴史的宿命がここで生まれるわけです。カテゴリー的必然性と私は言っています。

だからどこの国でもヨーロッパ型の社会民主主義があって、 これに飽き足らない連中は意識しようがしまいが、この「左翼反対派」というカテゴリーの位置に立たされるということが起きます。ハンガリー革命でルカーチの立場もこれですし、ドイツでは独立社会民主党とスパルタクスが追い込まれた立場でありますし、どこでもそうです。その典型が言ってみればレーニンのロシア革命になる。そしてさらには、後進国革命で中国革命にまで至る。あるいはカンボジア革命まで至る。労働者階級・社民など存在しないのだから、彼らはもう事実上左翼反対派でもなんでもないのに、マルクス主義革命論のカテゴリーではそうなってしまうのです。

60年安保闘争、戦後政治過程の頂点

社民・スターリニストにたいする左翼反対派というカテゴリー、その日本における初めての現れとしてブントが誕生し、60年安保を闘ったんだという、そういう位置づけです。そして、左翼反対派というカテゴリーが安保闘争の中でブントをこづき回し惑乱させ、その解体に至るという物語です。少し具体的にお話ししましょう。

60年安保は先ほど言いました戦後政治過程の頂点として闘われ、同時にこの過程にピリオドを打つことになります。安保闘争はその総称として「国民運動」と呼ばれたように、全体としては社会党・総評の主導のもとに国民各階層を束ねての統一運動だったわけです。その機関が「安保改訂阻止国民会議」でした。全学連も正式加盟しておりました。そうすると、この国民運動の中で全学連がマルクス=レーニン主義的な革命復興路線に固執する限り、その立場は必然的に「左翼反対派」の立場になる。これが、第一次ブントの誕生でした。1968年頃の新左翼セクトが置かれた立場と、この点が根本的に違う。歴史的に押さえなければならない点です。

68年には新左翼諸セクトは、もう労働者階級とも社民ともスターリニストとも離れたところで独自に、いわば勝手に大衆運動を過激化していきます。労働者同盟員まで根こそぎこれに動員しました(反戦労働者)。その分また、60年と違って68年が日本の政治過程にほとんど影響を与えなかったことにつながります。それでいて、左翼反対派の自己意識は払拭できないでいる。「反帝・反スタ」という自己規定が典型的にこれを表現しています。この自己矛盾が「新左翼」の内実であり、この意味では60年ブントはそもそもは「新左翼」ではなかったのです。それでいて、60年代新左翼の出発点をなす、このねじれた関係はなかなか理解がいきにくいかもしれません。

叛乱としての安保闘争

ところが、60年安保闘争のどん詰まりの時点で、左翼反対派ブントが現実の試練にかけられます。戦後政治過程における国民運動はスケジュール闘争による動員形態でしたが、安保闘争も19回にわたってこれが繰り返されました。ところが、1960年の5月19日という日に、岸内閣が衆議院で改訂安保法案の批准を強行して可決してしまう。 条約ですから30日後に自然成立することになりますが、5・19から6・18に至る最後の一か月に安保闘争は頂点を迎えるわけです。けれど、55年以来の戦後政治過程の延長という性格が、ここでガラッと変わってしまうのです。

安保改訂阻止国民会議はその頃までに1633団体がこれに結集して文字通り国民運動といえるものになります。5・19をきっかけにして、最盛期には580万人が動員されるという日本では空前絶後の大衆運動です。首都圏では毎日国会の周りが人で埋められるという事態が起こるわけです。これだけの人数のデモが国会を取り囲んで、国会の社会党、共産党にプレッシャーかけることで、直接に政治過程に影響を与えるということになりました。

ジレンマに直面するブント

こうした中で、全学連とブントはどうなっていたか。国会の前に動員した膨大な学生大衆をどこかに向けて先導していかなきゃいけないわけですね。ところが、「キシヲタオセ」と叫ぶ国民大衆に取り囲まれて身動きも取れない。ブントが「労働運動の左翼的再編」という時の具体的な戦術目標は労働組合を国会デモに連れ出すことでしたが、5・19以降はそんなのは当たり前の現実になります。総評・労働組合も国会にはせ参じて岸内閣の暴挙に抗議デモをする。言ってみれば、この状態の中で「左翼反対派」としてのブントの位置、古典的マルクス=レーニン主義者としてのブントの位置づけが効力を失ってしまい、ブントは事実上の大衆前衛となってしまいます。国会周辺の毎日の叛乱状態のうちで、その先端を切らねばならないのです。これがブント学生同盟員の言い知れぬ焦りになります。なぜかといえば、ブントの革命のコンセプトと現実の大衆運動とが齟齬をきたすということが起きます。つまりマルクス=レーニン主義的な労働者階級を主体とした革命のイメージと、安保闘争で国会を取り巻いた国民大衆のそのまた先端を走らねばならない。そこにギャップが生じるということです。党と大衆とはどう違うのか、そして党の分裂とはどういうことだったのかと、自己認識の動揺がデモの渦中のブントを捉えることになります。つまり、自分たちが目指していたのとは全く違う叛乱の渦中に投げ込まれて、しかもその先端を走ってこれを貫徹するという、内心と自分の行動主義との乖離を経験します。まあ言ってみれば魂と身体のギャップです。こんなことが一カ月続く。これが以降、私の原体験になるということです。

国民革命としての安保闘争

以上の次第から、60年安保闘争というのは日本で初めての国民革命だったのだと、私は思うようになりました。市民革命と限定しても結構です。規模が前代未聞でしたし、日本の歴史では極めて珍しく大衆運動が内閣を倒しました。米国大統領の訪日を阻止しました。この安保闘争という国民運動に国民が勝利したのです。具体的に言いますと、その後の社会党の躍進につながり、いわゆる革新自治体の成立が普通になります。何よりもここで初めて、日本国民が戦後政治過程を自ら卒業して、戦後の日本国民として受肉することができた。自覚的に国民になることがこの闘争を通じて初めてできた、いわゆるアイデンティティーというやつですね。同じことが知識人についても言えます。この運動を先導することによって、戦後日本知識人というコンセプトがここで初めて確定する。日本国民と知識人、この両者が組んで、その後の60年代の経済の高度成長と大衆消費社会が、国民自身のもの、知識人自身のものとして血肉化することにつながっていきます。安保闘争にもまして、高度経済成長は「戦後最大の思想的事件」だった。私はこんな風に後に思うようになりました。この意味では明治維新が目指した日本の近代化が、百年経ってようやくこの時点で大衆的な意味で完成した。それが60年安保闘争だというふうに総括できると思います。

安保闘争とナショナリズムの経験

スモール:旧左翼スターリン主義の問題はナショナリズムと言われていますね。そして新左翼の一部はその面でスターリン主義を批判してたじゃないですか。当時のブントに参加している活動家は自分の闘争と他の地域における闘争とのつながりについてどう思っていましたか 。

長崎: スターリン主義をナショナリズムと仰ったけれど、これは一国社会主義ということですね。日本における反スターリン主義にはもちろん、一国社会主義への批判が含まれていました。しかし、もっと重点が置かれていたのは、やっぱり前衛党論なわけです。つまり、革共同、トロツキズムの特徴として、スターリンのような前衛党ではない前衛党の主張を前面に押し出しました。プロレタリア独裁が今のソ連社会では成立していないという、ソ連共産党とソ連社会の現状に対する批判が全般的な反スターリン主義の中身です。ブントの見方にも同じトロツキズムの系譜なのでそういうことがもちろん含まれている。そうなんですが、先ほど言ったのは、安保闘争に至る闘争の渦中で、その先端を駆け抜けることによって、言ってみればその教義、ドクトリンがすっ飛んでしまうという経験をするわけです。安保闘争の国民運動の中で反スターリン主義なんて言ったって何の関係もないような、そういう大衆運動の経験を現に踏んでいるということになりますね。それが先ほど言ったことです。あくまで経験的な地盤に日本の左翼体験を据えたいということで申し上げています。

これは欧州の新左翼と違う特徴ですが、50、60年代の日本の新左翼は理論左翼に止まらずに独自の大衆運動を作ってもいたのです。トロツキスト革共同とブントの違いにもなります。この経験のことを抜きにして日本の新左翼の綱領とか、マルクス・レーニン主義理解の程度とかをあげつらっても意味がないと私は思ってきました。

「アンポハンタイ」から「キシヲタオセ」へ

安藤: 国民運動、安保闘争におけるナショナルな運動をその当人たちはでも戦後体制を倒すと言う意識はやっぱりあったんですか。例えばブントの人たちは戦後民主主義を批判するという意識や議論を持っていたんですか。

長崎:ブントに限って言うとそうではないんです。これも奇妙な点です。ブントは安保条約改訂反対にあくまで固執していた。何故かというと、岸内閣による安保条約の改定は日本資本主義のアメリカからの自立の証である、つまり条約に反対しこれを粉砕することは、そのまま高度経済成長をもって復活していく日本資本主義そのものの打倒闘争だというわけです。それが革命につながる。つまり、経済的下部構造から政治の目標を位置づけるという古典マルクス=レーニン主義の公式に沿っていた。さらに言えば、これが岸内閣の意図でもあったわけです。岸内閣がなぜ日米安保条約の改定に固執したか。破棄とまではいかないですけれども、これの改定に固執した。これまでの安保条約が日本の義務だけ規定してアメリカの日本の防衛義務がないという片務的な性格を持っていたのに対して、相互的義務という両方向からの同盟条約に変えないといけない。これが岸内閣の条約改正への意気込みだったということです。したがって、岸内閣としては、日本資本主義の自立の政治的な表現と言ってもいいほどに、安保条約改訂に対する意気込みは半端じゃなかったんですよ。岸は安保を改定して憲法改正と再軍備につなげたかった。しかもこれが絵空事でなかったのは、安保闘争以前では、憲法改正賛成の方が世論調査では反対よりまだ多い時代だったのです。

岸内閣の姿勢に対応して、安保反対闘争の底流にも、アメリカにたいする従属から少なくとも半独立になろうという国民意識が存在していました。日本国民は必ずしも自覚してなかったけれども、60年安保闘争は戦後の歴史で唯一ナショナリズムの運動たったともいえるのです。安保闘争に勝利して、日本国民は「中学校程度にはアメリカを卒業した」と私は言っています。大体アメリカではこれは反米の「東京暴動」と呼ばれていました。ただ当時、反米民族闘争をもろに出していたのが日本共産党だったのです。共産党と喧嘩してるブントとしてはもろに反米とは言えないんだよね。言えないんですけど、それを岸内閣の日本資本主義自立路線に対する反対と言い換えて岸内閣に対決する。ねじれたナショナリズムというものがそこにあったでしょうね。しかしとりわけブントの私どもとなると、反米意識とナショナリズムはぜんぜんなくて、世界革命意識しかない。その点でもうソ連や中国の共産党の言うことなど聞かない。日本国民の叛乱の中で、岸内閣への向き合い方がブントはずれてしまう。アンポに固執する点で、ブントと岸内閣とは奇妙に孤立した対峙の関係にあったのです。

それというのも、60年の5・19から安保闘争が絶頂に向かうわけですけれども、その時に、安保改定の是非に拘泥してはならないと、竹内好を筆頭として戦後知識人グループが言い出すのです。アンポでなく「民主か独裁か」だとテーマのすげ替えを提唱するわけです。その影響は大きかった。叛乱する大衆のスローガンが一夜にして「アンポハンタイ」から「キシヲタオセ」に転換するのです。これには驚きました。言ってみれば、「民主か独裁か」と国民運動が叛乱状態となるなかで、安保に固執する岸信介とブントとが置いてけぼりをくらうということですね。両者が主役から外されてしまった、ということが事実として起こったということじゃないでしょうか。

 

3)1960年代 ひとつの精神史』では階級論から大衆蜂起へ、科学から思想へといった問題構成の変化を指摘しています。この著作で指摘された変化をどのようにとらえているのか?この変化の中で、それに違和感を覚えたと書いているが、それはなぜだろうか?

叛乱論

長崎:ここからはブントのことでなく、私の思想問題に話を移しますね。マルクス=レーニン主義に代表される革命論のパラダイムからの転換を、私は『叛乱論』で期せずして果たすことになります。そう思っています。『叛乱論』を読んだら分かると思いますけれども、労働者階級とか、前衛党とか、プロレタリアートの独裁とか、あるいは綱領と戦略戦術、そういうタームが全然出てこないでしょう。当時としては、こんなものは左翼の文献としてありえない。むしろ、『叛乱論』がこういう形を取ったという意味でも、1968年は政治の文体を変えたと私は言っています。『叛乱論』は政治論の中身ばかりか、政治の文体の転換を提起していたのではないでしょうか。

まず、資本主義でなく近代世界とか近代社会とかをターゲットにして、「近代への叛乱」というテーマを立てる。叛乱を革命から切り離して位置づけたという特徴です。また、「労働者階級と前衛党の指導」という革命運動の構図を、「アジテーターと大衆」という関係に切り替えています。先にも指摘しましたが、資本主義ではなく近代というタームを使いました。これも大きな用語転換だったんですね。もとより資本主義は存在しないとか終焉したとかではありません。後の話題になると思いますが、これにはルカーチとかハイデガーとかの思想の影響が関係しています。さらにもうひとつ、階級というコンセプトを大衆という用語に一回ばらしてしまったということがあります。これには二つの側面があります。ひとつは、もともと叛乱というのは兵士とか階級とかに限定されない言葉です。もともと労働組合の一員であったり全学連の一員であったとしても、人びとが叛乱に決起する時はそれぞれのアイデンティティーが一度は清算されてしまうわけです。ただの人として叛乱に決起するのです。その意味で、近代における強力な人間の社会的規定性、学生なのか、労働者なのか、知識人なのかというアイデンティティーがひとまず放棄されます。近代社会の根幹をなすアイデンティティーが無化する集団行動が叛乱だと定義するのですから。

もうひとつは状況的なことです。この時代になりますと、階級とか階層の規定が事実散逸して、みなが大衆というありかたをする。マルクスならルンペンプロレタリアと呼ぶであろうような、アイデンティティーと歴史とを失ったデクラセ大衆の存在です。実際、今日の世界各地の街頭蜂起はこうしたものです。叛乱を主題にすることが、階級から大衆への主体のコンセプトの転換を要求しています。もうひとつ、これまでは叛乱は民衆暴動に終わる、そうでなくともありうべき革命過程の最初の段階と位置付けられてきました。革命とはプロレタリア独裁による国家権力獲得だとして、その一里塚としてでなく、これとは独立に大衆叛乱そのものを扱ったのです。

科学から思想へ

それから科学的理論という言葉から思想へのタームの転換のことです。かつて理論と言いますと、日本ではどうしてもマルクス主義の科学的理論を指していました。「理論と実践」のその理論です。あるいはマルクス理論との関連が問われました。私に「思想」という言葉はなかったのです。ところが、60年代を通じて、思想という思考が私にも侵入してきます。たとえば、安保闘争の後にマルクス主義のおさらいをするわけですが、当時は資本主義あるいは帝国主義の経済学の理論が中心を占めるべきだとされていました。宇野経済学とかその発展とかです。私はしかし60年代の半ばにこれを止めます。科学や理論の代わりにそこに思想という言葉が入ってくる、その違和感のことを覚えています。私の『1960年代』に思想という言葉の珍しさの感覚のことを書いた理由です。しかしじきに、資本主義の理論というより近代思想をターゲットにするようになり、そのことを思想という言葉で考えるようになったということです。「自立の思想的根拠」といった吉本隆明の言葉遣いの影響もあったかもしれません。科学的な「より正しい理論」を探す、あるいはこしらえるというより、この私の孤立した思考の営みを名指したい。中身はともあれ「思想の態度」が問題なのだと。それが思想ということです。

しかし以上はたんに私の私的な、時代的な体験ということで別に深い意味はありません。党についての綱領的思考を棄てることに付随して経験されたことで、後には私は思想でなく思想の態度が問題だということを、むしろ嫌うようになります。「思想の自立を妨げた思想家」などと、吉本さんの追悼文に書いたりしました。「思想という魔語」に囚われた最後の世代が全共闘です。

日本の1968と叛乱論

『叛乱論』のことに戻ります。後から振り返ってみると、あの時点でよくこんなものが出てきたと思います。これはもともと68年の前に書かれたものなんです。東京大学の占拠されている時計台で、ちょうど創刊間もない『情況』の編集長に会いまして、何かないかって言うから、200枚あるよと言って渡したものがこれです。言ってみれば全共闘運動が起こる前の私の思考を、全共闘運動に部分的に合わせて書いたという性格を持っている。結果的に、私の感触としては全共闘のノンセクトラジカルとブントの一部にこれは受け入れられたと思いますが、新左翼諸セクトにとっては総じて受け入れられることはなかったと思います。

それともう一つ、『叛乱論』は一部に受け入れられたとは思うんですけれども、その反面として、叛乱のアナーキーの中で、政治とか党とかいうコンセプトが逆に不分明になってしまうことが起きるわけですね。だから、60年ブントの経験者としては『叛乱論』を書いた後にこれではまずいと思いました。叛乱がもともと持っているアナーキーな性格はアナキズムとは違う。政治とか党とかいう概念はなしでいいのかっていう問題を残してしまったと私は思いました。それで『叛乱論』の後すぐに「叛乱と政治の形成」という評論を書いて、私自身の論点を移していこうと思いました。それが『結社と技術』になるというそういう流れです。

 

4)『結社と技術』において、ルクセンブルクの『大衆ストライキ、党及び組合』やルカーチの『歴史と階級意識』を議論しながら、当時の左翼を批判し、自分の組織論を展開していく。60年代にルカーチやローザルクセンブルクといったマルクス主義者をどのように読んでいたのか?また、日本のマルクス主義者たちの議論については誰をどのように読んでいたのか?

ルカーチとハイデガー

「叛乱と政治の形成」という問題を立てて、アナキズムに話を回収するのではないとしたら、これまでのマルクス主義理論の経験の中で何が参考にできるか。60年代に私に影響を与えたのがルカーチです。それから、レーニンでしょうか。レーニンの場合どうしても目の上のたん瘤になるのは、その前衛党と国家論です。『何をなすべきか』と『国家と革命』。その山を越えないといけないわけですね。まずはルカーチを通じて、近代世界の批判という点で突破していく路線を取りました。

なぜルカーチが参考になったかと言いますと、ルカーチは『歴史と階級意識』で近代世界の物象化というテーマを挙げて、あらゆる分野で物象化を徹底化したのが資本主義的近代だというわけです。革命運動が、科学が、マルクス主義理論が物象化している。つまり、近代にある限り何ものも物象化の趨勢を免れえない。そのもととなったのが、マルクス主義が原点とした労働という人間の最も本源的な活動です。それをルカーチは対象化という活動の下に捉えるということですね。後に言っていますが、ルカーチはまだマルクスの自己疎外という主張を知らなかったんです。もちろん、ヘーゲルのことは熟知してましたが、マルクスの『経済学・哲学手稿』を見ていない。だから、もっぱら対象化という概念で物象化を捉えていた。つまり例えば、労働を通じて自然を対象化するということ。自然を人間化し、技術の対象にして利用し繁栄していくわけでしょう。人間が使えるモノに万物を取り立てていくという近代の基本的な営みとして、労働の対象化を捉える。下手するとマルクス主義から離れてしまうようなコンセプトから、ルカーチは近代を定義していく。マルクス主義から見ると非常に危ない。そういうものとして私は読みました。

労働の批判へ

ただし、ルカーチをこのように読んだのは、実はハイデガーの影響です。ハイデガーの近代批判は、近代というのは労働という活動による世界像の創出だというものです。つまり労働という活動が本源だとするのは基本的にブルジョワ的世界観だ、というのがハイデガーの近代批判だと思います。私は「ヒューマニズムとは何か」を1963年に読み、これにショックを受けて、ルカーチにつながっていきます。それから、60年代になりますと、ホイジンガの『中世の秋』だとか、ボルケナウの『封建的世界像から市民的世界像へ』など、ヨーロッパ中世を好んで読むようになります。それから例えばパスカルとかも好んで読みましたが、パスカルにおける近代科学の始まりではなくて、彼が一時期魔女に取りつかれて狂ってしまったという挿話に関心を持ったり、ニュートンについても晩年錬金術に凝ったとか、そういう反動的なところを見ることを通じて、気分的にも近代批判に重なります。理論の嗜好が変わるんですよ。ということで、叛乱とは近代にたいする叛乱だとして、『叛乱論』になります。

評議会運動としての全共闘

運動の組織論では、叛乱の組織論の素材になったのは全共闘運動です。全共闘という組織と運動が現れて眼前に展開している。これは一体何なんだということです。私は60年安保闘争の絶頂期に大衆の叛乱状態を経験したことを思い出しました。つまり、これは叛乱ではないかということですね。そして全共闘という組織は叛乱が必ず自ら作り出す組織です。一般に評議会と言われますね。ソビエトと言われたり、コミューンと言われたりしてきました。労働者評議会もありますが、一般的に叛乱が作る自己権力としての組織が評議会です。評議会として全共闘を見ること、これを基盤としてそこから組織論をスタートさせることで、私は組織論の立論をレーニンから元に戻すことを意図しました。叛乱におけるアジテーターと大衆の関係そのことから集団形成を論じることです。アジテーターですから組織論には言葉の問題が本質的です。レーニンの革命期の著作を読むときも、そこに「言語の永久革命」を読むことです。

そうした中で、叛乱の組織にとって政治とか党とかというコンセプトは絶滅するどころか、かえって独自のカテゴリーとして浮かび上がってきて叛乱に反作用を及ぼすことが見えてきます。レーニン・スターリンの前衛党論を解体する論点をここに据えたのです。こういう目から見ると、ルカーチの組織論はいかにもヘーゲル的で倫理主義的です。ルカーチ批判は後に『革命の哲学』で、長いルカーチ論を書くことになります。

結社の組織論

それから、ローザ・ルクセンブルグですね。エンゲルスのドイツ労働者階級が強力な勢力になる20世紀初頭に、彼女は組織労働者から大衆、さらにはマルクス的意味でのルンペンプロレタリアにまで、革命の主体を拡張します。こういうかたちでレーニンの『何をなすべきか』の革命論・前衛党論に対抗しようとした。しかし、彼女らの叛乱は潰えてレーニンが国家権力を握るという結果です。ローザやルカーチにたいして、私が持ち出したのは結社というコンセプトです。これはふたつの理由からでした。

ひとつはブランキを生かしたかったんですね。「私のブランキ」という文章を書きました。自分に与えられた素材を使って何かを形作っていくということ、叛乱大衆に形を与えることを純粋に体現した人物としてブランキを捉える。芸術的な感覚と言ってもいいようなものかもしれません。もうひとつは、先ほど、自然科学に関連して技術論に対する私の関心に言及しました。技術という人間の活動は自然素材をある形にしていくということで、ギリシア的にはテクネーですね。テクネーというと芸術作品まで含まれるわけで、人間の側から目の前の混沌とした素材を形にしていく営みとして技術を捉えます。すると、叛乱大衆のアナーキーに形を与える集団が結社ではないかと。「死と再生」の入会儀礼を伴うブランキの結社じゃないかと。そういう意味で結社という言葉を使いました。

宇野経済学と戦後主体性派唯物論

それから、そのころ日本のマルクス主義として何が相手だったのかというご質問に簡単に触れます。ひとつは圧倒的にマルクス主義経済学、それも宇野派経済学です。宇野さんの『経済原論』を隣に置いて資本論を読んだわけですね。ですから、私の『叛乱論』でも宇野経済学、というより宇野派に対する批判が出ていると思います。この流れの中で1965年に岩田弘の『帝国主義論』が出て、ブントの一部がこれに強く影響される。現代帝国主義論を基礎にして、前衛党の革命戦略を考えなければいけない。マルクス=レーニン主義のコンセプトに忠実な古典的革命論の復活が第二次ブントの中で起こりました。岩田さんも宇野派ですね。私も宇野経済学の影響を強く受けた者ですが、岩田弘については断固反対というかたちで宇野派から離れていくことになります。どうやって離れたかについては、言い出したら長くなりますので質問があれば応えるということにします。

それからもうひとつ、マルクス主義の哲学では、私は最初から梅本克己とか黒田寛一とか、戦後主体性派のマルクス理解に捉えられておりました。そのマルクス主義から脱却していくうえで、先ほどの近代批判が関連します。人間主義という意味でのマルクス主義に底流するコンセプトですね。この人間主義はハイデガー、ルカーチ的近代批判と抵触するわけですよ。戦後主体性派マルクス主義は、マルクス主義唯物論の人間無視に傾いた姿勢に対して、もう一度人間の主体性を回復していくんだと強調した。その中にも潜んでいる近代批判の欠如、それがゆえに戦後技術論を中心とした生産力主義・近代主義的マルクス主義から抜け出ることができない。これが批判のポイントになっています。この批判は『叛乱論』でも生かされていると思います。

唯物史観から叛乱論へ

こうして、反近代の叛乱論では、資本主義批判から社会主義へという史的唯物論の発展史観がなくなっていくわけです。反近代と言ったって、唯物史観のように未来を展望するわけじゃない。ここに歴史意識、時間意識が基本的に転換する、そういう底流がありましたね。というのも、革命と叛乱を対比して言うと、マルクス主義の革命というのは、その基本に進歩する時間というコンセプトがあるわけでしょう、史的唯物論ですから。プロレタリア独裁による社会主義の将来社会は歴史法則の必然であり、この法則貫徹の契機として革命がある。ところが、叛乱は事実として大規模なものから地域の小さなものまでありますが、その時間概念の基本的な特徴は、時間あるいは歴史の概念を超越しているということです。時間のことを忘れちゃってるんですね。いまここに、自分たちのユートピアを実現するんだということにかまけてしまう。一瞬のユートピアというかたちで時間概念が無化される。これがまた叛乱の強さと脆さのもとにもなります。叛乱のそこに政治と党の概念が招き寄せられるのです。また、革命とか叛乱とかのコンセプトの基底にまで降り立つならば、そこにフランスのポストモダン思想が批判したような近代思想全体につながるテーマが潜んでいるのではないでしょうか。これが私の見方です。

反スターリン主義と叛乱論

スモール:唯物論の話ですが、スターリン主義の影響で社会主義は必然的な将来とされましたが、スターリン以前のマルクス主義者はそのように考えていなかったと思います。つまり、社会主義は必ず起こるということではなく、もし社会主義に移行しないで資本主義のままだといろいろな仕方でわれわれは苦しむ。つまり、必然的に課せられる問いですね。資本主義に生きてるわれわれはいつも資本主義に生み出された問題、例えば失業に直面する時に、その問題がある可能性を指し示しているけれど、われわれが何かしないとこの問題は解決しない。だから、唯物論に対する反発はスターリン主義の歪曲された唯物論への反発だと思います。

長崎:そこは少し微妙なところです。例えば「プロレタリア独裁」から「社会主義革命の達成」という意味での永続革命論、あるいはエンゲルスが言う「次の革命は恐慌に伴って必然である」とか、『ドイツ・イデオロギー』から『経済学批判』に至る史的唯物論の発展史観を考えると、現状批判の鋭さということとは別に、歴史法則の必然という展望がマルクス・エンゲルスになかったというのは言い過ぎでしょう。また資本論のマルクスに生産力主義がなかったかどうか。それに、マルクス主義の名のもとに経済危機論から革命情勢の到来をアジる危機論は昔も今も後を絶っていません。

それからもうひとつ、革命は必然だからといって待っていれば来るというものじゃないんだと、レーニンが強調していた。だから前衛党の指導とプロレタリア独裁が必要だと言うわけですね。前衛党がなければ、必然性は必然に転化しないことになります。マルクスの『共産党宣言』の段階では共産党の役割は永続革命ですが、革命を永続させる階級的物質的な根拠をやはり求めていた。以上はマルクス主義革命論の歴史として微妙な点があり、腑分けして振り返る必要があります。

歴史的必然か歴史批判か

スモール:そうですね。マルクスやレーニンの時代において、楽観的な態度を取ることは理解できることだったと思います。楽観的というのは、その時には大衆的な労働者運動が存在していましたね。現在には、そういう大衆的運動が存在しないから、社会主義は必然的に起こるという箇所を読む時に、われわれはマルクスやレーニンのような楽観的態度を取ることができないと思います。

長崎:今思い出したんですが、私は60年安保闘争の後にマルクス主義の総括を迫られたわけですが、その結論を「マルクス主義は歴史批判である」とまとめたことがあります。つまり、あなたが先ほどおっしゃったように、歴史批判のバックになるような論点が資本論にあり、その他の著作の中にもたくさん見いだせるわけですね。これは今でも参考にできるし、参考にすべきです。その意味で、「よみがえるマルクス」というかけ声がアメリカでも日本でも盛んに唱えられているわけですね。歴史批判、歴史的現代に対する批判としてマルクスは古典として大いに使える。使わなければいけない。私はかつて「マルクス送葬派」と呼ばれましたが、そういう意味で私はマルクスを否定していません。ただ、以降の私のターゲットはただマルクス=レーニン主義の革命論、そういうことです。

物象化とニヒリズム

スモール:もうひとつ質問です。「批判」という言葉が出てきました。マルクスやルカーチがやっているような「批判」とハイデガーのやっている「批判」。ルカーチだと物象化によって、物象化を克服するという意味ですね。ルカーチのヘーゲル主義、これはレーニンのことばだと資本主義に基づいて資本主義を克服しなければならない。それはハイデガーの「批判」とだいぶ違うと思います。どのようにつながりがあると思いますか?

長崎:おっしゃる通りです。ルカーチの場合には、近代世界における物象化の徹底そのものがマルクス主義的革命につながるという構成になっています。ヘーゲル的ですがそうなっています。マルクスにこういう言葉がありましたでしょう、現状の肯定的評価を通じて、現状の否定を押し出していく。つまり、資本主義の徹底から資本主義の否定を導くのがルカーチ、この意味でハイデガーと違います。

ハイデガーはどうかといえば、ニヒリズムです。ヨーロッパのニヒリズムの到来ということが、私の書き物のみならず、60年代以降の日本社会の底流にあって時々顔を出す。そしてナチ革命もニヒリズム革命と見る。この点では、ハイデガーがナチに入れあげたことが問題にされてしかるべきです。第二次大戦では若い兵士たちが背嚢にハイデガーの一冊を入れて戦地に向かったと証言している人もいますね。それほど、第二次大戦のドイツの戦争に関して、ハイデガーが悪い働きをしたんですよ。なぜなのか。例えば『存在と時間』はその後半になると、なぜか民族とか共同体の歴史的運命の高唱につながっていく。私は「アナルコ・ニヒリズム」と呼んでいますが、ナチの革命にも1968年の叛乱の底流にもこれがあったんですよ。おそらく今も。

それから、批判という点でのルカーチとハイデガーとのつながりです。これは労働の批判です。先に申上げたとおりです。

 

5)新左翼の歴史について聞きたい。長崎さんは60年の安保闘争と68年の安保闘争を連続したものとして考えるが、それは何故か?新左翼の初期と後期の間にどのような違いがあるのか?両闘争の違いを強調するのではなく、その同じ点を取り出すことで何が見出されるのか?

左翼反対派の継承と断絶

長崎:正確には継承かつ断絶と見たほうがいいですね。継承について言いますと、安保ブントが60年の夏に内部の論争を経て解体します。ところがブントはこれで死にきれずに、人的にも社学同それから第二次ブントに継承されていきます。同時に、安保ブントの中心的メンバーが革共同にトレードされていきました。そして、これが革共同の分裂、中核派と革マル派の分裂の直接的な契機になっていくわけですね。安保ブントの路線的で人的な継承関係です。

綱領と戦略など理論的継承関係もありますが、ここでは省きます。新左翼とは何であったかと問うとき、むしろ組織性格の継承と断絶が重要です。安保ブントがマルクス主義の「左翼反対派」の位置にあったことは前に申しました。けれども、68年になりますと新左翼諸セクトのそういう位置はもう解消されています。つまり、60年安保闘争のような、社会民主主義が主導する国民運動内部での「労働者左翼反対派」という位置がもう霧散しています。確かに、革共同なんかは労働組合に影響力がないわけではなかったけれど、革マル派は別ですが68年には労働者は組合の外部に反戦青年委員会というかたちで組織されます。また、反戦労働者として街頭闘争に動員されます。68年のセクトはもう「労働者本隊」から独立した存在になっていて、社会民主主義は無関係、共産党民青は初めから敵という配置になっています。党派闘争も主として新左翼諸セクトの間の競合となります。

しかしにもかかわらず、この時代になって、60年にはなかった「新左翼」という名称が使われる。しかも、自分たちが新左翼という「左翼反対派」ではなくなっていることを自覚しないという逆説です。安保ブントを人的理論的に継承して、新左翼セクトの綱領戦略も自己意識も左翼反対派のものだったからです。もう「唯一の前衛党」の主張などありえないのに、たてまえとしてはわが党は唯一の前衛党を目指すと言う。唯一の前衛党を目指す諸セクトの競合体が新左翼と意識されていました。排他的な自己主張のために競合が暴力沙汰になっても、だからいつまでも「内」ゲバであって、外ゲバという戦争になりえないのです。戦争なら戦争の論理に従って内ゲバを途中でやめることができるはずです。

全共闘運動と新左翼諸セクト

したがって、68年になりますと二つの運動潮流の競合あるいは野合が起こっていくわけです。ひとつは全共闘運動に代表されるような学園占拠の闘争ですね。もうひとつは、新左翼諸セクトが主導する70年安保闘争です。セクトにしてみれば、全共闘が個別学園闘争、自分たちが全国政治闘争だという分け方をするわけです。とりわけ革共同がそうだったですけれど、当初、全共闘運動の独自性などセクトの眼中にないのです。主眼はあくまでも70年安保闘争を革命的危機へ、それに向けての街頭闘争の過激化です。両者が別々にあったわけではありません。全共闘からすれば大学の占拠を拠点にして、同時に進行する街頭闘争に実際に参加するし、セクトのヘルメット部隊に拍手を送ったりします。諸セクトの方では全共闘の中で全共闘の一員として活動したり、その主導権を爭ったりするというかたちで相互に依拠しながら、日本の1968が闘われました。

それから、全共闘はよくノンセクトラジカルと言って、セクトと区別されますけれど、全共闘運動では両者の境目は揺れていたのです。その揺れを見ないと、全共闘を評価して対照的にセクトを戯画化することに陥りかねない。逆に、セクトの政治路線を重視する側から言うと、全共闘運動は政治闘争になっていないと捉えがちになる。典型的な例は小熊英二の『1968』ですね。その後この50年間はセクトの衰退ということもあって、あの時代に新左翼セクトが何だったのかについて論じることが、日本では圧倒的に欠けています。当事者それぞれがそれぞれ回顧録をぼちぼち出しているという現状で、新左翼論は不幸な状態のままです。

大衆消費社会への不適応

日本の1968は、フランスなどと違って、日本の政治過程に影響することがほぼ皆無でした。全共闘の叛乱とセクトの街頭闘争が、60年安保闘争のように国民運動をバックにして闘われなかったという限界です。そればかりか、全共闘あるいはセクトの全国評議会ができなかった。統一戦線が個々の闘争を支えるという叛乱の編成ができず、結果としてその後、武装闘争となりテロとなり、爆弾闘争という形で孤立していきます。60年安保闘争から大衆消費社会へという日本の国民革命の定着と、現在でも見られるような国民と知識人たちの変質、そうした社会のなかへと68年の運動が全共闘もセクトも追い込まれていったということだと思います。全共闘運動は基本的に大衆消費社会に対する反発あるいは不適応を動機としていましたから、この運動が継承されるとすれば大衆消費社会あるいは福祉国家への異議申し立てになります。実際、世界的に「新しい社会運動」と呼ばれたのがこれです。しかし日本ではこれも80年代の半ばに終わっていきます。

60年ブントが残した禍根

以上が、日本の新左翼の歴史とは何だったのかというご質問への私の見方です。この歴史をさかのぼっていくと、どうしても60年ブントの潰れ方が残した禍根ともいうべきことに突き当たります。安保闘争が最後に大衆叛乱の状況を呈したことは先に話しました。ブントが主役の一人として自ら作り出したのがこの叛乱だったのに、ブントにはこれに対処する備えというものがまるでなかったのです。叛乱から革命へという戦略的備えのことではありません。戦後政治過程の卒業としての国民革命、そんな理解に及ぶはずもなかったのです。

ですから安保闘争の直後から、「総括」論争が過熱しました。典型的には労働者左翼反対派、もうひとつが武装闘争路線の主張です。この二つの分派が当時の革共同にトレードされたわけです。そして前者が革マル派、後者が中核派として革共同分裂の引き金になったようです。前者は左翼反対派だとして、後者中核派とは何だったのか。1968になると中核派は全共闘運動に目もくれず「七〇年武装闘争」に突っ走っていきます。同時に、ブントの組織的いい加減さとは対照的に前衛党の組織体質を護持しています。私は中核派をブント主義と革共同主義のアマルガムだと評しています。60年ブントの叛乱への思想的な備えのなさ、それでいて肉体的に叛乱の先端を走ったこと、このねじれが中核派という化合物を生み出したのではないか。60年ブントの潰れ方が、こういう化合物を後に残し、それが1968のセクトの中心になるのです。

ですから60年安保闘争も1968も、叛乱の中の党とは何かという問いを積み残すことになりました。繰り返しますが、これは前衛党の綱領戦略のレベルの話ではなく、私自身の経験も含めて「新左翼の歴史」のなかに、党の問いを根付かせないといけないことだと思っています。日本では全共闘以降50年間、運動のブランクを生み出し続けています。これも新左翼の歴史の功罪をおいては理解できないことに違いありません。

 

 

 

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